ひがし茶屋街は文政三年(1820)に12代藩主、前田斉広(なりなが)の許しを得て、金沢の中心部に点在していたお茶屋をここに集めて、公認の遊里として誕生させたのが始まりとなります。
当時は約百軒近くのお茶屋が建ち並び、茶屋街一帯が板塀で囲われ、街の入り口には木戸が設けられていました。天保二年(1831)、茶屋街が藩命により一旦廃止され、ひがし茶屋街は愛宕(あたご)と呼称されますが、慶応三年(1867)に再び茶屋街が認められて「ひがし」「東新地」呼ばれるようになります。
また、この年に出された「東新地細見(さいけん)のれん鏡」には、ひがし茶屋数百十二件、芸妓集百十九人等がいたとされ、金沢の歓楽地として大いに賑わったのが伺えます。
その後は建屋の構造を変更させる政令が出ても、大きく替わることはなく、その特徴となる格子戸と大戸、それに二階の造りが高い街並みは藩政時代の面影を今も色濃く残しており、ひがし茶屋街は現在、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。
写真上段:東新地絵図‥幕末当時のひがし茶屋街を描いたもの(金沢市玉川図書館所蔵/K3-102)
写真下段左:ひがし芸妓集合_昭和初期
写真下段中:ひがし芸妓_大正
写真下段右:ひがし芸妓_大正後期
主計町(かずえまち)茶屋街は明治二年(1869)に茶屋街として認められ、華やかな賑わいをみせてきました。
町名の由来は、慶長十九年(1614)大阪冬の陣、翌年の大阪夏の陣で功績をみせた加賀藩士、富田主計(かずえ)の上屋敷があったことから付けられたとの由来があります。
平成十一年十月、住居表示法により変更されていた「尾張町二丁目」から再び「主計町」と戻され、全国で初めて旧町名が復活した町となりました。
ゆったりと流れる浅野川のほとりに建ち並ぶこの茶屋街の風情は、ひがし茶屋街とは一味違った情緒を残しており、ひがし茶屋街同様、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。